観光部ブログ

2018年04月15日(日)

〜「京都のヒーロー 茶の湯:千利休と千宗旦を追いかけて そのB 天才茶人 利休」の巻〜 ピロピの 新人ドライバー奮闘記!  SEE THE LIGHT! [観光情報]

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みなさん こんにちは。

さて、
今回は主役の千利休について。

利休は、ただ茶人というには
軽すぎるくらい
歴史の表舞台に登場する
千両役者の一人。

もとはといえば
堺の豪商の息子。

利休は
どのように登場し
重要な存在となっていったのでしょうか?

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織田信長

利休の登場は、
英雄 織田信長あってのこと。

信長が足利義昭を擁して
上洛。

同時に堺に軍費を要求。
それに対して堺の町衆は反対に動きます。

それを講和へと導いたのが
今井宗久

宗久は紹鷗の一番弟子で
紹鷗の娘を妻に迎え、
紹鷗の茶具を引き継いだ。

もう一人の茶人、津田宗及
こちらは茶人の父と紹鷗から
茶の湯を学んだ。

信長上洛の際に
今井宗久の紹介で
千宗易(のちの利休)も信長と面会。

今井宗久 津田宗及 千利休

三人は信長の茶頭に取り立てられ
三大茶人の時代が到来します。


信長は「名物狩り」と言われるように天下の名物
茶道具を強制的に買い上げさせて、
富と権力を握るための道具として
茶の湯を利用しました。

信長に重用されて
千宗易は茶頭としての地位を確立します。

信長もその後
戦の後に
戦功者に対して

茶の湯を許す「茶湯御政道」(ちゃゆのごせいどう)
取り入れ、
羽柴秀吉は宗久、宗易の指導を受けて
茶の湯にのめりこんでいきます。

茶の湯は戦国大名にとっても
ひと時の教養として
無くてはならないものへと。
同時に茶頭の存在も大きなものとなります。

そんな矢先に
本能寺の変が勃発します。

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豊臣秀吉

本能寺の変で
信長の死後、

三大茶人は
秀吉の茶頭となりますが、
秀吉の好む道と合わない
宗久、宗及はだんだんと距離をおくようになります。

宗易は
信長の茶頭であり、

その部下であり自分が指南役の秀吉を
呼び捨てにしたり
軽く見ていたようで
それを証明する手紙も数多く残っています。

信長時代から
秀吉に茶の手ほどきを
するだけでなく
その資金運用まで行っていて

秀吉の懐具合まで
知り尽くすくらい
重要な存在になっていきました。

秀吉にとっても
宗易は
堺のネットワークを支配する上で
欠かせないキーマンだったのです。

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利休の茶室で唯一現存する 妙喜庵 待庵

秀吉は
宗易の追求する「侘び茶」に強く惹かれて
茶の湯を「宗易流」へと
変えていき、

関白となってから
宗易をともなって参内し、

禁中茶会を開き、
有名な「組み立て式の黄金の茶室」
が持ち込まれ、

宗易は
正親町天皇から「利休」の称号を得ます。

ここに
「天下一の茶湯もの」千利休が誕生、
秀吉の地位とともに、
秀吉の弟、秀長とともに
秀吉陣営の飛車・角といった
存在となります。

利休だけが秀吉にものを言える、
とまで特別な存在。

しかし「黄金の茶室」は
利休が求める質素な「侘び茶」から
かけ離れたものであり、
これを境に 
秀吉と利休は別の道をいくようにもなります。

それが利休の運命をも変えてしまうのですが。

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再現された秀吉の「黄金の茶室」

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利休が極めた二畳の茶室

千利休が極めた二畳の茶室。

村田珠光から師の紹鴎まで。
利休は継承しながらも
究極の「侘び茶」を完成させます。

利休の待庵には多くの工夫が
施されています。

@ 究極の小空間


三畳ではわび茶の境地に足りない、
と考えられた二畳の茶室。

図のように畳一畳に
三人座れる。
亭主と客が膝をつきあわせるスタイル。

A小窓

茶室の空間を壁で囲い
窓を開けることで
微妙な明かりのバランスを生み出す。

窓の位置、サイズも厳密に計算されていた。
紹鷗の、四畳半の茶室を入口の明かりだけで調整していた
スタイルと対照的。

B茶室を広く見せる工夫

「室床」と呼ばれる、
にじり口の正面に床を配置、
床奥の柱を無くし土壁が塗られている。

天井は平天井ではなく
一部斜面にし圧迫感を感じさせないように
工夫されている。

C「わび」を演出するための建材

建材は杉や竹が中心で簡素。

壁はすべてが土壁なだけでなく
わらが表面に散らされている。

床の間はすべて土壁、
床柱は杉の丸太、
横木は節を見せた桐、
と あらゆる面で簡素を貫いている。

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明治になってから復元された大徳寺 千利休木造

秀吉にとって
重要な存在であった利休でしたが、
秀吉から切腹を命じられます。

表向きには

大徳寺山門二階に
利休木造を安置したこと
(その下を秀吉がくぐるのか?という怒り)
が原因とされています。

ただ、その後の利休や秀吉の様子から
今も謎の多いこの「事件」。

原因と考えられているものを挙げてみましょう。

@大徳寺山門二階の利休木造設置

A茶器を不正に売買したという疑惑

B秀吉と利休の、わび茶に対する考えのずれ。

C秀吉の朝鮮出兵に反対

D秀吉が所望した利休の娘を差し出さなかった

などなど。

秀吉が利休に対して激怒したのは
事実ですが、

残されている手紙、資料から
大徳寺事件にしても
前田利家など 北政所を通じて謝罪することを
利休に勧めていたことが分かっています。

でも利休はそれを拒絶、
堺から追放されて
結局切腹となりますが、

利休自身の哲学で
自ら死を選ぶことで
「関白にも屈しない茶人」としての
人生を完結した、とも言われています。

秀吉は
利休の身柄を堺から京都に移送する際、
わざわざ上杉景勝に厳重警戒を命じています。

秀吉はそこまで
利休の力を認め、背後の力を恐れてもいました。
なぜなら
利休のわび茶を継承した弟子の中には
「七哲」と呼ばれた
武将も数多くいたからです。

七哲

古田織部(ふるたおりべ)
蒲生氏郷(がもううじさと)
細川忠興(ほそかわただおき)
高山右近(たかやまうこん)
瀬田掃部(せたかもん)
牧村兵部(まきむらひょうぶ)
芝山監物(しばやまけんもつ)


利休の門弟となった武将

豊臣秀吉
豊臣秀長
豊臣秀次
前田利家
織田有楽斎
など



秀吉は
大徳寺の利休像を京都市街に引き出し
磔の刑にまでします。

しかし晩年には「利休の茶が飲みたい」といっていたという
話も残っており
利休の茶器を 利休の子供達に返却したり・・・。

天下人として処罰したものの
後悔していたのではないでしょうか??




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利休が好んだ 長次郎 赤楽茶碗「無一物」

いかがでしたか?

茶人として政治家として
時代に君臨した千利休。

侘び茶以外は
あまり知られていない側面があります。


次回は
利休の死後の千家を宗旦にスポットライトを当ててみようと
思います。

Posted by 観光部

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