観光部ブログ

2018年04月15日(日)

〜「京都のヒーロー 茶の湯:千利休と千宗旦を追いかけて そのB 天才茶人 利休」の巻〜 ピロピの 新人ドライバー奮闘記!  SEE THE LIGHT! [観光情報]

画像(125x125)

みなさん こんにちは。

さて、
今回は主役の千利休について。

利休は、ただ茶人というには
軽すぎるくらい
歴史の表舞台に登場する
千両役者の一人。

もとはといえば
堺の豪商の息子。

利休は
どのように登場し
重要な存在となっていったのでしょうか?

画像(366x400)・拡大画像(440x480)

織田信長

利休の登場は、
英雄 織田信長あってのこと。

信長が足利義昭を擁して
上洛。

同時に堺に軍費を要求。
それに対して堺の町衆は反対に動きます。

それを講和へと導いたのが
今井宗久

宗久は紹鷗の一番弟子で
紹鷗の娘を妻に迎え、
紹鷗の茶具を引き継いだ。

もう一人の茶人、津田宗及
こちらは茶人の父と紹鷗から
茶の湯を学んだ。

信長上洛の際に
今井宗久の紹介で
千宗易(のちの利休)も信長と面会。

今井宗久 津田宗及 千利休

三人は信長の茶頭に取り立てられ
三大茶人の時代が到来します。


信長は「名物狩り」と言われるように天下の名物
茶道具を強制的に買い上げさせて、
富と権力を握るための道具として
茶の湯を利用しました。

信長に重用されて
千宗易は茶頭としての地位を確立します。

信長もその後
戦の後に
戦功者に対して

茶の湯を許す「茶湯御政道」(ちゃゆのごせいどう)
取り入れ、
羽柴秀吉は宗久、宗易の指導を受けて
茶の湯にのめりこんでいきます。

茶の湯は戦国大名にとっても
ひと時の教養として
無くてはならないものへと。
同時に茶頭の存在も大きなものとなります。

そんな矢先に
本能寺の変が勃発します。

画像(400x371)・拡大画像(550x511)

豊臣秀吉

本能寺の変で
信長の死後、

三大茶人は
秀吉の茶頭となりますが、
秀吉の好む道と合わない
宗久、宗及はだんだんと距離をおくようになります。

宗易は
信長の茶頭であり、

その部下であり自分が指南役の秀吉を
呼び捨てにしたり
軽く見ていたようで
それを証明する手紙も数多く残っています。

信長時代から
秀吉に茶の手ほどきを
するだけでなく
その資金運用まで行っていて

秀吉の懐具合まで
知り尽くすくらい
重要な存在になっていきました。

秀吉にとっても
宗易は
堺のネットワークを支配する上で
欠かせないキーマンだったのです。

画像(275x400)・拡大画像(331x480)

利休の茶室で唯一現存する 妙喜庵 待庵

秀吉は
宗易の追求する「侘び茶」に強く惹かれて
茶の湯を「宗易流」へと
変えていき、

関白となってから
宗易をともなって参内し、

禁中茶会を開き、
有名な「組み立て式の黄金の茶室」
が持ち込まれ、

宗易は
正親町天皇から「利休」の称号を得ます。

ここに
「天下一の茶湯もの」千利休が誕生、
秀吉の地位とともに、
秀吉の弟、秀長とともに
秀吉陣営の飛車・角といった
存在となります。

利休だけが秀吉にものを言える、
とまで特別な存在。

しかし「黄金の茶室」は
利休が求める質素な「侘び茶」から
かけ離れたものであり、
これを境に 
秀吉と利休は別の道をいくようにもなります。

それが利休の運命をも変えてしまうのですが。

画像(400x266)・拡大画像(640x427)

再現された秀吉の「黄金の茶室」

画像(208x246)

利休が極めた二畳の茶室

千利休が極めた二畳の茶室。

村田珠光から師の紹鴎まで。
利休は継承しながらも
究極の「侘び茶」を完成させます。

利休の待庵には多くの工夫が
施されています。

@ 究極の小空間


三畳ではわび茶の境地に足りない、
と考えられた二畳の茶室。

図のように畳一畳に
三人座れる。
亭主と客が膝をつきあわせるスタイル。

A小窓

茶室の空間を壁で囲い
窓を開けることで
微妙な明かりのバランスを生み出す。

窓の位置、サイズも厳密に計算されていた。
紹鷗の、四畳半の茶室を入口の明かりだけで調整していた
スタイルと対照的。

B茶室を広く見せる工夫

「室床」と呼ばれる、
にじり口の正面に床を配置、
床奥の柱を無くし土壁が塗られている。

天井は平天井ではなく
一部斜面にし圧迫感を感じさせないように
工夫されている。

C「わび」を演出するための建材

建材は杉や竹が中心で簡素。

壁はすべてが土壁なだけでなく
わらが表面に散らされている。

床の間はすべて土壁、
床柱は杉の丸太、
横木は節を見せた桐、
と あらゆる面で簡素を貫いている。

画像(400x348)

明治になってから復元された大徳寺 千利休木造

秀吉にとって
重要な存在であった利休でしたが、
秀吉から切腹を命じられます。

表向きには

大徳寺山門二階に
利休木造を安置したこと
(その下を秀吉がくぐるのか?という怒り)
が原因とされています。

ただ、その後の利休や秀吉の様子から
今も謎の多いこの「事件」。

原因と考えられているものを挙げてみましょう。

@大徳寺山門二階の利休木造設置

A茶器を不正に売買したという疑惑

B秀吉と利休の、わび茶に対する考えのずれ。

C秀吉の朝鮮出兵に反対

D秀吉が所望した利休の娘を差し出さなかった

などなど。

秀吉が利休に対して激怒したのは
事実ですが、

残されている手紙、資料から
大徳寺事件にしても
前田利家など 北政所を通じて謝罪することを
利休に勧めていたことが分かっています。

でも利休はそれを拒絶、
堺から追放されて
結局切腹となりますが、

利休自身の哲学で
自ら死を選ぶことで
「関白にも屈しない茶人」としての
人生を完結した、とも言われています。

秀吉は
利休の身柄を堺から京都に移送する際、
わざわざ上杉景勝に厳重警戒を命じています。

秀吉はそこまで
利休の力を認め、背後の力を恐れてもいました。
なぜなら
利休のわび茶を継承した弟子の中には
「七哲」と呼ばれた
武将も数多くいたからです。

七哲

古田織部(ふるたおりべ)
蒲生氏郷(がもううじさと)
細川忠興(ほそかわただおき)
高山右近(たかやまうこん)
瀬田掃部(せたかもん)
牧村兵部(まきむらひょうぶ)
芝山監物(しばやまけんもつ)


利休の門弟となった武将

豊臣秀吉
豊臣秀長
豊臣秀次
前田利家
織田有楽斎
など



秀吉は
大徳寺の利休像を京都市街に引き出し
磔の刑にまでします。

しかし晩年には「利休の茶が飲みたい」といっていたという
話も残っており
利休の茶器を 利休の子供達に返却したり・・・。

天下人として処罰したものの
後悔していたのではないでしょうか??




画像(400x298)・拡大画像(800x597)

利休が好んだ 長次郎 赤楽茶碗「無一物」

いかがでしたか?

茶人として政治家として
時代に君臨した千利休。

侘び茶以外は
あまり知られていない側面があります。


次回は
利休の死後の千家を宗旦にスポットライトを当ててみようと
思います。

Posted by 観光部   パーマリンク

2018年04月06日(金)

〜「京都のヒーロー 茶の湯:千利休と千宗旦を追いかけて そのA 茶の湯の歴史」の巻〜 ピロピの 新人ドライバー奮闘記!  SEE THE LIGHT! [観光情報]

画像(125x125)

みなさん
こんにちは。

京都市内のほとんどの桜は葉桜と姿を変え、
御室桜や北東西の山側の桜を残すのみ。

次回に続いて
千利休、宗旦が今に残した足跡を
追っていきたいと思います。


「お茶」が「わび茶」になっていくまで

はじまりは?

誰が広めたのか?

文化として認められるようになったのはなぜ?

千家のことを知る前に
予備知識的なことを簡単に触れたいと
思います。

画像(320x220)

茶の湯は

平安時代、804年に遣唐使船で
唐に渡った 空海最澄
日本にもたらした可能性が高いといわれています。


それから天皇、公家、僧侶の間で「喫茶」(団茶)
が始まり、
その風習は廃れますが、
寺院では「茶でもてなす」習慣が
残ったといいます。

画像(140x240)・拡大画像(346x589)

栄西

中国では宋の時代に入って
抹茶が普及します。

その抹茶とあわせて薬も服用したといわれ
「一茶一湯」とも呼ばれているそうです。

1168年、1187年の二度、
宋に渡った臨済宗の開祖、栄西
日本に抹茶法を伝え、
有名な「喫茶養生記」を著して
源実朝に献上しました。

お茶は健康に繋がる実用的なもの

栄西が広めたことにより
武家社会でも喫茶の風習が広がっていきます。

その後、高山寺の僧 明恵
栄西から贈られた茶の種子を
寺で栽培し「栂尾茶」を育てます。

明恵は宇治でも茶を栽培するようになり
それが現在の「宇治茶」の起源といわれています。

鎌倉時代後期になると
民間でも茶礼や茶会が取り入れられるようになります。。

ベースになっているのは
禅寺での茶礼の形式。
(四つ頭茶会といって正客4名に相伴客がつくスタイル)

同じころに
唐から美術工芸品(唐物)が輸入され
茶道具や絵画などを愛好する唐物数寄が広まり

室町時代に足利家が熱心に唐物収集を行ったことで
ピークを迎えます。
唐物を床の間に飾り
書院座敷で行う茶礼「書院茶の湯」が生まれます。

画像(400x266)・拡大画像(472x315)

高山寺 明恵上人

このように
室町時代に入ると
日本に広まった「茶の湯」は
唐物崇拝という状況で
唐物を買いあさる行為が目立ち
茶の本質は忘れられていきます。

画像(250x250)

「わび茶」の開祖 村田珠光

そういった風潮に飽き飽きし
「わび茶」を開いたのが
村田珠光

大徳寺の一休宗純のもとで禅の修行を行い
大きな影響を受けた珠光。

一休は珠光に 茶と禅の一体化した精神 を教えた。
同時に能や連歌など日本文化を学び「わび茶」へとつなげました。

珠光は能阿弥から 唐物の鑑定や立花を学び
能阿弥の紹介で
足利義政の茶道師範を務めます。

四畳半、書院風の宝形造(屋根を四枚の三角形の板を組み合わせて造る建築法)
が珠光のスタイル。

珠光は
当時の唐物買いあさりや酒盛りが入り混じった茶会を否定し
より精神性の高い交流の場を目指します。

美術品も和ものを採用し、
茶道具も質素なものを用いるようになります。
「珠光茶碗」とよばれ、珠光が目をつけた
信楽焼はその好例であったようです。

身分や道具に偏見をもつな!
という珠光の登場で

「わび茶」はますます発展していきます。

画像(227x271)

珠光に大きな影響を与えた 一休宗純

画像(234x234)

武野紹鴎

珠光の「わび茶」を更に風流なものと継承した

武野紹鷗

商人出身の紹鴎は
和歌から「わび」の本質を学び茶の湯に取り入れます。

本来「わび」の意味は、ものが欠如した状態。そこから生まれる悪い感情。

しかし平安・鎌倉時代活躍した藤原定家らは
「わび」を一種の美意識として捉え、
和歌を詠んでいる。

そのことに感銘を受けた武野紹鷗は
茶の湯に「わび」を取り入れて新境地を開きました。

紹鷗は珠光の弟子らに茶の湯を学び、
自分の「わび茶」を確立します。

それは「茶禅一味」。茶の湯と禅の求めるところは同じである、
という哲学。

堺の南宋寺にいた紹鷗は この「茶禅一味」のスタイルを
京都大徳寺にも持ち込む。
茶と禅は切っても切れない関係となったのです。

紹鷗は珠光の茶室四畳半を継承しつつ
さらに三畳半、二畳半の茶室を考案しました。

指導役としても優れ
今井宗久、津田宗及、田中宗易(千利休)
後の三大茶人を育てているのもすごいです。

画像(400x273)・拡大画像(600x410)

いかかですか?

千利休が登場するまでを
簡単に追ってみました。

奥が深いですよね。

茶の湯の世界だけでなく
歌や能、将軍家に天皇家に公家など
色んな影響を経てきているのが
わかりますよね。

次回は ようやく千家のヒーローたちに
触れていきたいと思います。

Posted by 観光部   パーマリンク

2018年03月27日(火)

〜「京都のヒーロー 茶の湯:千利休と千宗旦を追いかけて その@」の巻〜 ピロピの 新人ドライバー奮闘記!  SEE THE LIGHT! [観光情報]

画像(125x125)

みなさん
こんにちは。

桜の開花が昨年より9日も早い京都。

春日和の中、お茶を飲みながら花見。
なかなか良いですね。


千利休と その孫の宗旦

わび茶を完成させた利休と、
千家を今も残る伝統として継続させる
礎を築いた宗旦

どの世界でも 天才はいるもの。
しかしそれを子、孫と継承していくのは至難の業。

僕は利休よりも宗旦に興味を覚えます。


平安時代に日本に入ったと伝えられる喫茶から、
わび茶へと、
精神世界・哲学にも結び付いて、
戦国時代には 領土よりも茶器名器を!と望む武将もいたといいます。

それほどまで政治にも力を持った「茶の湯」は奥が深い!!

千家は堺の出身ですが、
京の都に多大な影響をもつヒーローとして
紹介したいと思います。

画像(400x400)・拡大画像(800x800)

千利休

画像(205x219)

孫の千宗旦

ちなみに僕は大のお茶好き。

宇治を案内する際、
お土産を求めるお客様には
なかなかのトリビアを披露する程です。

千家を紹介する前に、
僕が大好きな宇治茶をいくつか紹介します。

ちなみに独断と偏見で紹介しますので、
必ずしも高級なものばかりでなく、
僕が美味しいと思うものとなります。

画像(188x400)・拡大画像(210x445)

1位 上辻園 宇治玉露

1位 上辻園 宇治玉露

これは少し高いですがうまい!

ちょっと甘さを感じて香りが周りに
充満するほどです。

宇治茶はもともと玉露や抹茶に合う
お茶ですがその中でも1位です。

画像(272x400)・拡大画像(303x445)

2位 ひしわ 宇治有機ほうじ茶

2位 ひしわ 宇治有機ほうじ茶

これは無農薬で作られたほうじ茶で
こちらも甘味と香り際立つお茶です。
価格もお手頃。

びっくりなのは
アイスティーにしても
美味しい!!

画像(400x300)・拡大画像(640x480)

3位 上辻園有機玄米茶

3位 上辻園 有機玄米茶

茶葉、玄米とも有機栽培で作られているそうです。

普通の玄米茶と比べると
香ばしさ、甘味、香り高いお茶です。

食後に飲むとすっきりします。

画像(400x400)・拡大画像(500x500)

4位 宇治田原製茶所 奥山

4位 宇治田原製茶所 奥山

製茶の工程では

蒸し→揉み→乾燥 を経て荒茶となりますが、

その蒸しの段階で通常の倍の時間をかけて
より香り高いお茶となっています。

画像(202x357)

5位 通圓 ふじつぼ

5位 通圓 玉露ふじつぼ

創業が平安時代と
日本最古のお茶屋といわれている
通圓の人気玉露。

手間をかけて育てられた茶葉は
他とくらべて まろやかな味が際立っています。

画像(400x400)・拡大画像(800x800)

いかがですか?

京都に来たらまず、
色んなお茶を味わって下さい。

その後に お茶や千家ゆかりの地などを巡るのも
なかなかの観光。

次回からは
少しずつ千利休、宗旦に迫っていきたい
と思います。

Posted by 観光部   パーマリンク

2018年03月18日(日)

〜「京都の春:桜を楽しむ」の巻〜 ピロピの 新人ドライバー奮闘記!  SEE THE LIGHT! [観光情報]

画像(125x125)

みなさん こんにちは。

このところ、京都は暖かかったり、寒かったりと
一日の温度差が10度以上ある日が続いています。

それでも
ところどころ
桜の花が開きつつあり、
春はもうすぐそこまで
来ています。

そこで、
僕が昨年の春に訪れて
印象に残っている「桜を楽しめる場所」
を独断と偏見で紹介したいと思います。


千本閻魔堂

普賢象桜は房ごと散ります。
その美しさに一目ぼれ。


桜見ごろ  4月下旬

画像(400x300)・拡大画像(480x360)

普賢象桜はいとおかし

画像(400x266)・拡大画像(480x320)

散る時は房ごと。

平等院と宇治川・塔の島

染井吉野、枝垂桜、牡丹桜など。

桜見ごろ  4月上旬

画像(400x266)・拡大画像(800x532)

鳳凰堂の桜

画像(400x268)・拡大画像(600x402)

塔の島から眺める宇治川は最高です。

石清水八幡宮

山桜、染井吉野など約2000本。

桜見ごろ  4月上旬ごろ

画像(400x266)・拡大画像(800x533)

石清水八幡宮

木屋町通 御池から五条通まで

染井吉野など約320本。

桜見ごろ 3月下旬から4月上旬ごろ

画像(300x400)・拡大画像(480x640)

毎晩賑わう木屋町も桜の名所です

醍醐寺

染井吉野、山桜など約1000本。

桜見ごろ 4月上旬ごろ

画像(400x266)・拡大画像(640x427)

太閤秀吉の醍醐の花見で有名。

毘沙門堂

山科疎水から染井吉野、山桜など約800本。

桜見ごろ 4月上旬ごろ

画像(400x260)・拡大画像(800x521)

毘沙門堂の桜

画像(400x266)・拡大画像(800x533)

山科疎水も美しいです。

善峯寺

染井吉野、枝垂桜など約500本。

桜見ごろ 4月上旬〜下旬ごろ

画像(400x265)・拡大画像(540x358)

善峯寺の桜は4月いっぱい楽しめます。

嵐山

染井吉野、山桜など約1500本。
日本さくら名所100選にも選ばれています。

桜見ごろ 3月下旬〜4月上旬ごろ

画像(400x300)・拡大画像(800x600)

桂川沿いから見る渡月橋

仁和寺

御室桜として有名。
染井吉野など約500本。

桜見ごろ  4月中旬

画像(400x277)・拡大画像(432x300)

背の低い御室桜は有名。

原谷苑

紅枝垂桜、山桜、薄墨桜など20種類約400本。

桜見ごろ 4月中旬ごろ

画像(400x300)・拡大画像(800x600)

原谷苑は多種の桜を楽しめます。

東寺

有名な不二桜、染井吉野など約200本。
ライトアップは格別な美しさ。

桜見ごろ 4月上旬ごろ

画像(400x266)・拡大画像(800x533)

東寺春のライトアップ

二条城

山桜、染井吉野など約380本。

桜見ごろ 4月上旬ごろ

画像(400x300)・拡大画像(800x600)

二の丸庭園の桜

平野神社

染井吉野、魁桜など約60種、400本。

桜の見ごろ  4月上旬ごろ

画像(400x265)・拡大画像(680x452)

平野神社の桜

円山公園

枝垂桜、染井吉野など約680本。

桜見ごろ 4月上旬ごろ

画像(400x266)・拡大画像(800x533)

円山公園 京都で一番有名かも知れない枝垂桜

画像(400x265)・拡大画像(635x422)

円山公園の坂本龍馬、中岡慎太郎像

蹴上インクライン、南禅寺

疎水沿いには約400本が。
南禅寺には染井吉野、山桜など約100本。


桜見ごろ 4月上旬

画像(400x267)・拡大画像(800x535)

南禅寺

画像(400x266)・拡大画像(800x533)

蹴上 インクラインの桜

哲学の道

疎水沿いには染井吉野など約430本。


桜見ごろ 4月上旬ごろ

画像(400x300)・拡大画像(500x375)

約1.8キロの哲学の道

半木の道

鴨川堤防沿いに 八重紅枝垂桜約70本。

桜の見ごろ 4月上旬ごろ

画像(400x266)・拡大画像(600x400)

北大路大橋から北山大橋までの半木の道の桜

鞍馬寺

山桜、染井吉野など約500本。

桜見ごろ  4月中旬ごろ

画像(400x267)・拡大画像(800x535)

鞍馬寺

大原三千院

山桜、枝垂桜など 約300本。

桜見ごろ  4月中旬ごろ

画像(400x266)・拡大画像(800x533)

三千院

龍安寺

染井吉野、枝垂桜など約400本。


桜の見ごろ  4月上旬ごろ

画像(400x300)・拡大画像(800x600)

枯山水庭園の桜

背割堤

染井吉野など約250本。


桜見ごろ 4月上旬ごろ

画像(400x266)・拡大画像(800x532)

八幡市の背割堤


以上、

昨年、仕事やプライベートで
訪れてみた桜を楽しめる場所でした。


ちなみに見ごろは自然の成す技。
その年の気候によって前後します。

どの場所も綺麗なんですが、
僕的には 千本閻魔堂
咲いても散っても美しい 普賢象桜 が一番のお気に入りです。

みなさんも京都の春、楽しんで下さいね。

Posted by 観光部   パーマリンク

2018年03月13日(火)

〜「京都の春:京都の花街」の巻〜 ピロピの 新人ドライバー奮闘記!  SEE THE LIGHT! [観光情報]

画像(125x125)

みなさん こんにちは。

朝晩はまだまだ寒さが残りますが、
日中は暖かい日も増え、
待望の春です。

京都の街はアカデミック。
大学・高校などたくさんの学校がある街でもあります。

住むところを探して回る新入学生がいるかと思えば、
晴れ着姿で卒業を迎える人たちも・・・。

春は出会いと別れが交差する季節でもあります。


そんな特別な季節を
更に華やかにするのが
京都に5つある花街(かがい)の伝統行事!!

今回は花街について
簡単に紹介したいとおもいます。

画像(400x334)・拡大画像(570x477)

今年の梅花祭。上七軒 梅わかさんと芸妓さんたち

京都には、

祇園甲部
宮川町
先斗町
上七軒
祇園東部

という5つの花街があります。

花街の春は
2月25日に北野天満宮で行われる
上七軒の「節分祭」から華やかになります。

画像(285x400)・拡大画像(315x441)

祇園甲部歌舞会 都をどり

節分祭のあと、

各花街で歌舞会で行われます。

2018年の予定は、

上七軒 北野をどり(3月25〜4月7日)

祇園甲部 都をどり(4月1日〜30日)

宮川町 京をどり (4月7日〜4月21日)

先斗町 鴨川をどり (5月1日〜5月24日)

そして、

6月には 五花街合同公演 が行われて

祇園東 祇園をどり(11月1日〜10日)

へとつながります。


中でも 祇園甲部歌舞会 都をどりは有名ですよね。

画像(400x118)・拡大画像(800x237)

五花街合同公演

画像(225x225)

祇園甲部

祇園甲部(ぎおんこうぶ)

「祇園さん」と地元で呼ばれ
八坂神社の門前町として栄えてきました。

花見小路四条から南には、
江戸時代の茶屋建築が残っていて
趣き深い街並みが
THE KYOTO!といった情緒を形作っています。

舞踏は 京舞井上流。
春に「都をどり」、秋には「温習会」の公演があります。

画像(225x225)

宮川町

宮川町(みやがわちょう)

鴨川の東側、
四条から五条にある花街。

江戸時代には伝説の出雲阿国の
歌舞伎公演が行われた。

舞踏は若柳流。

春に「京をどり」、秋に「みずゑ会」
の公演あり。

画像(225x225)

先斗町

先斗町(ぽんとちょう)

鴨川と木屋町通の間、三条、四条間にある花街。

鴨川から見える先斗町歌舞練場はいとおかし。

ポントとはポルトガル語の「先端」から採ったとされている。

舞踏は尾上流。

春に「鴨川をどり」、秋に「水明会」の公演あり。

画像(225x225)

上七軒

上七軒(かみしちけん)

北野天満宮の東側にある花街。

室町時代に北野天満宮の修造の際
七軒の茶屋を建て、参拝客の休憩所としたのが始まり
と言われています。

舞踏は花柳流。

春に「北野をどり」、秋に「寿会」の公演あり。

画像(225x225)

祇園東

祇園東(ぎおんひがし)

もともとは
祇園甲部と一緒の花街であったが、
明治14年に分けられた。

祇園甲部北側を祇園東とした。

舞踏は藤間流。

秋に「祇園をどり」が行われる。

画像(176x225)

真希乃さん

芸妓さんの中でも、

全国でも名の通る方々を少し紹介しますと・・・

画像(400x359)・拡大画像(534x480)

まめ春さん

画像(216x357)

照古満さん

画像(394x400)・拡大画像(669x679)

紗矢佳さん

画像(292x400)・拡大画像(488x667)

紗月さん

いかがですか?

芸妓さんにもそれぞれ個性があり、
人気の芸妓さんになると
出待ちの人数も数多く、
カメラを持ち待つ観光客も数多いです。

皆さん、
あくまで芸妓さんは出勤、
または仕事中に花街を歩いているので
過度に邪魔になるような行為や、
相手を不快にする行為は慎んで、

彼女達の優雅さと京都の伝統・文化を感じてみて下さいね。


歌舞会を見にいきたい!
という方は、
各花街のホームページより注文してください。

画像(400x300)・拡大画像(800x600)

先斗町の千社札

番外編: 千社札(せんじゃふだ)について

舞妓・芸妓さんは名刺の代わりに
「千社札」を持ち歩いてます。(シールで貼れるようになっている)

僕らドライバーも 送迎の際に頂くことがあります。
財布の中に入れておくと縁起が良い、ということです。

お金が舞い込む → お金が舞妓む

と伝えられているようです。

舞妓さん、芸妓さんは
この千社札を 神社仏閣で許可をもらって
所定の場所に貼っていきます。

祇園周辺の神社仏閣を参拝の際、
気を付けて見てみるのも楽しいです。

千社札は、もともとは
江戸時代に庶民の間で流行したもので、

巡礼(千社詣:願いを叶えるため千の神社を参拝する)の際、
その印として住所・名前・年齢などを
木や紙の札に書き、収めたのが始まりだそうです。

舞妓・芸妓さんのものは
色々な形やタイプがあります。

画像(400x300)・拡大画像(500x375)

お茶屋に貼られた千社札

Posted by 観光部   パーマリンク

過去の記事へ

4

2018


1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

PHOTO

新洛中洛外其ノ五~苔寺と写経~

新洛中洛外其ノ五~苔寺と写経~

秋の観光シーズン到来!

秋の観光シーズン到来!

アオイ自動車本社ビルが、アニメ「けいおん!」の背景に

アオイ自動車本社ビルが、アニメ「けいおん!」の背景に

検索


カテゴリーリスト

最近の記事

RSS1.0 RSS2.0

[Login]


powered by a-blog