観光部ブログ

2018年05月28日(月)

〜「日本三如来 : その@ 因幡薬師堂(平等寺)」の巻〜 ピロピの 新人ドライバー奮闘記!  SEE THE LIGHT! [観光情報]

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因幡薬師。

その名で親しまれている平等寺。

京都市の真ん中。
烏丸高辻と松原の間、東側にあるので
京都に来たら一度は通り過ぎているような
中心地に立地します。

狂言演目の「因幡堂」「鬼瓦」の舞台にも
なっています。

創建は1003年、
幾度の火災で燃えていますが
千年以上、同じ場所に残っている
庶民の寺。

病気平癒、子授け、安産の仏様としても有名ですが、

とりわけ「がん封じ」の仏様として信仰されています。

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本尊「薬師如来像」(非公開)

因幡堂が建てられた平安時代、
その頃洛中での寺院建立は
「東寺」「西寺」以外は許されていませんでした。

そこから
洛中には「寺」と称さずに
「堂」と名乗る私的な持仏堂が
多く生まれたそうです。

「因幡堂」もその一つ。
貴族 橘 行平(たちばなのゆきひら)が建てました。

なぜ、薬師如来?因幡堂?なのか。

行平が天皇の勅命で
因幡国司として因幡に遣わされ、
その任務の帰路で
病に倒れます。

行平は夢で
僧が因幡の海中の浮き木を供養しなさい、
と告げたのを信じ
探索させたところ一つ光る浮き木を発見し
それが薬師如来像だった、
そして病も消えて元気を取り戻した、
という言い伝え。

実際には10〜11世紀に流木から
造られた一木造りであるという説が
信憑性高いようです。

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本尊の薬師如来像は非公開ですが
3年前に特別公開されました。

御開帳は本堂ではなく
その横の収蔵庫で行われました。

写真のように
頭の上に頭巾?帽子?のようなものを
かぶっています。

因幡薬師を安置している厨子は江戸時代後期のもの。
後ろにローラーがついていて
火災など緊急時に運びやすく作ってあり、

薬師如来像は厨子になんとか入る大きさ。
運ぶ際に頭をぶつけて破損などせぬように
頭巾をかぶっているそうです。

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現在の本堂は
明治19年に再建されたもの。

本堂、須弥壇の裏側には
明治・大正時代の画家 鈴木松年筆、仁王画があります。

口を開けた 阿形(あぎょう) 、くちを閉じた吽形(うんぎょう)
の金剛力士像が
寺の入口であった方向で睨みをきかせて
守護する画です。

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収蔵庫前にある神獣「贔屓(ひき)」

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本堂横の「鬼瓦」

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がん封じ 塗り香

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「がん封じ」の薬師如来として
有名ですが、

もうひとつ人気なのが
「インコお守り」

無病息災、がん封じのお守りとして

「病が飛び去るように・・」
「幸せが飛んでくるように・・・」

という願いから インコお守りが人気なのだそうです。


実際に がんを患った全国の患者が訪れて、
数々の奇跡も起こっている、と聞きます。

観光でも、参拝でも
一度足を運ぶ価値のあるお寺です。

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〜「日本三如来」の巻〜 ピロピの 新人ドライバー奮闘記!  SEE THE LIGHT! [観光情報]

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皆さん
こんにちは。

今回は前々から
お伝えしたかった「日本三如来」について。


「日本三如来」・・・インドから中国、朝鮮半島を経て
          伝わった三尊。


    @因幡堂(平等寺)の薬師如来
    A嵯峨釈迦堂(清涼寺)の釈迦如来
    B信州善光寺の阿弥陀如来

    を指します。


そうなんです。
@とAは京都にあるのです。

そちらも国宝・重要文化財をもつ
歴史深いお寺ながら、
そこまで知られていないスポットでは
ないでしょうか??

京都に佇む二つのお寺に
ついて簡単に紹介したいと思います。

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因幡堂(平等寺)

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嵯峨釈迦堂(清涼寺)

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善光寺(信州)

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2018年05月09日(水)

〜「天才金工師:正阿弥勝義〜清水三年坂美術館」の巻〜ピロピの 新人ドライバー奮闘記!  SEE THE LIGHT! [観光情報]

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みなさん。
こんにちは。

ゴールデンウイーク、
沢山の観光客で賑わった京都。

中でも、いつも人気観光スポットBEST3に
必ず入る清水寺。


その寺の麓に
清水三年坂美術館があるのをご存じでしたか??

この美術館で出会った
一人の天才金工師の作品たち。

しばらく見入ってしまう美しさ。

今回は 金工師 正阿弥勝義について
簡単に紹介したいと思います。

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清水三年坂美術館

まず、
清水三年坂美術館について。

幕末そして明治へ。

士農工商の身分制度廃止や
廃藩置県によって、
将軍家や大名家など武士階級は途方にくれました。

そして武家階級のお抱え職人たちも
失業の憂き目に。

そこで明治政府は
蒔絵師や金工師たちに
輸出用の作品を作らせます。

それらは外国向けに作られた芸術性の高くないものでしたが、

国内需要を意識して
選ばれた一流の蒔絵師、金工師らの作品は素晴らしい作品ばかり。


しかしそういった作品のほとんどは
オークションなどで
海外に渡っていました。

その作品の素晴らしさを
日本に再輸入し、この美術館を設立したのが
館長の村田理知氏なのです。

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正阿弥勝義

美術館には

七宝
金工
京薩摩
彫刻

などの常設展があります。

その中で
僕が一番魅せられてしまったのが
金工の正阿弥勝義の作品。

正阿弥勝義(1832−1908)

津山藩お抱えの彫金師の父の子として生まれ、
やがて父から彫金を学び、
岡山藩お抱えの彫金職人の名家 
正阿弥家の養子となり、

刀の装飾具を彫金したりしていた。


やがて明治の廃藩置県、廃刀令で
失業したが、
その技を生かして
花瓶、香炉、茶器などの
生活装飾品を制作する。

その作品の精巧さは
国内、海外ともに評価が高い。


清水寺に足を運ぶ際に
是非美術館で彼の作品を味わってほしいです。

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2018年04月23日(月)

〜「京都のヒーロー 茶の湯:千利休と千宗旦を追いかけて そのC 千宗旦と千家」の巻〜 ピロピの 新人ドライバー奮闘記!  SEE THE LIGHT! [観光情報]

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みなさん。

こんにちは。

先週末は4月としては異例な
真夏日を記録した京都。

今回は抹茶ラテを飲みながら

千利休の孫、宗旦と千家について
簡単に紹介しようと思います。

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千家の略系図

さて、

前回は千利休の自害までを
紹介しました。

今も引き継がれている
「千家」
利休の死後、
どのように生き残ってきたのでしょうか?

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利休の孫、千宗旦

上の系図を参考に、

利休には後継者候補の二人の息子が
いました。

最初の妻 宝心妙喜との間に生まれた
長男の道安

道安は茶の見識、技量ともに優れていて
利休生前は後継者と思われていました。

そして再婚した宗恩の連れ子であった
少庵
利休は養子として迎えています。

同世代の道安と少庵の関係を配慮した
利休は、
少庵を堺から離し、京都の大徳寺の
門前に住ませます。

これが堺千家京千家のはじまり。

利休は道安に家督を継がせるべく
財産処分状まで準備していたが、
自害したため反故となります。

利休の死後
道安は飛騨の金森長近を頼ったとされています。

一方の少庵は奥州へ流罪に。
利休七哲の一人、蒲生氏郷の庇護下に。

やがて秀吉から許された少庵は
会津から京都に戻り 本法寺の前に寓居を構え
千家再興に尽くします。

道安も同時に秀吉から許されていましたが
この時点で少庵に千家家督が渡ったと
考えられています。

当人 少庵は千家を継ぐつもりはなく
嫡男の宗旦を大徳寺に入れていました。

秀吉は利休の遺品や茶道具を
宗旦に返却します。

少庵は利休にとって義理の息子。
その嫡男宗旦は義理の孫ということになるのです。

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宗旦が隠居所として建てた裏千家「今日庵」

その後の宗旦。

将軍家や大名からヘッドハンティングされるが、
ことごとく断り経済的に苦しい生活。

利休高弟らは 宗旦の茶を批判する、など
前途多難でした。

宗旦は身を清貧に置きながら
侘び茶の精神を徹底し
利休の精神を受け継ごうとします。

大徳寺での修行が
大きな影響を与えました。

やがて江戸時代の初期に
利休の再評価が起こり
それが宗旦の名を高めたのです。

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宗旦書「日々是好日」

宗旦の茶は
「日々是好日」

人生には雨風があるが、風雨も楽しみ、
楽しみが無い時も 無いことを楽しむ。

宗旦自身は経済的に恵まれない人生であったため
子供たちの就職先探しは
熱心に行います。

長男の宗拙は家出し前田家に仕えます。

次男の宗守
松平家の茶頭に。
その後、京都武者小路に「官休庵」を営み
官休庵一世 武者小路千家を興します。

三男の宗左
宗旦から茶室「不審庵」を譲られ
不審庵四世 表千家を創設。
紀州徳川家の茶頭も務め
以後子孫は代々、宗左の名を世襲します。

四男の宗室
加賀前田家の茶頭となり
当地に茶の文化を広め
宗旦が「今日庵」を譲りうけ
今日庵一世 裏千家を創設。


このように
千家は3分立し
利休の茶の湯を継承していきます。

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表千家「不審庵」

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武者小路千家「官休庵」


いかがですか?

簡単に説明してしまいましたが
茶の湯は奥深いですね。

興味を持たれたことを
さらに調べてみて下さい。

観光する際に
楽しみが増えていきますよ。

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2018年04月15日(日)

〜「京都のヒーロー 茶の湯:千利休と千宗旦を追いかけて そのB 天才茶人 利休」の巻〜 ピロピの 新人ドライバー奮闘記!  SEE THE LIGHT! [観光情報]

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みなさん こんにちは。

さて、
今回は主役の千利休について。

利休は、ただ茶人というには
軽すぎるくらい
歴史の表舞台に登場する
千両役者の一人。

もとはといえば
堺の豪商の息子。

利休は
どのように登場し
重要な存在となっていったのでしょうか?

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織田信長

利休の登場は、
英雄 織田信長あってのこと。

信長が足利義昭を擁して
上洛。

同時に堺に軍費を要求。
それに対して堺の町衆は反対に動きます。

それを講和へと導いたのが
今井宗久

宗久は紹鷗の一番弟子で
紹鷗の娘を妻に迎え、
紹鷗の茶具を引き継いだ。

もう一人の茶人、津田宗及
こちらは茶人の父と紹鷗から
茶の湯を学んだ。

信長上洛の際に
今井宗久の紹介で
千宗易(のちの利休)も信長と面会。

今井宗久 津田宗及 千利休

三人は信長の茶頭に取り立てられ
三大茶人の時代が到来します。


信長は「名物狩り」と言われるように天下の名物
茶道具を強制的に買い上げさせて、
富と権力を握るための道具として
茶の湯を利用しました。

信長に重用されて
千宗易は茶頭としての地位を確立します。

信長もその後
戦の後に
戦功者に対して

茶の湯を許す「茶湯御政道」(ちゃゆのごせいどう)
取り入れ、
羽柴秀吉は宗久、宗易の指導を受けて
茶の湯にのめりこんでいきます。

茶の湯は戦国大名にとっても
ひと時の教養として
無くてはならないものへと。
同時に茶頭の存在も大きなものとなります。

そんな矢先に
本能寺の変が勃発します。

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豊臣秀吉

本能寺の変で
信長の死後、

三大茶人は
秀吉の茶頭となりますが、
秀吉の好む道と合わない
宗久、宗及はだんだんと距離をおくようになります。

宗易は
信長の茶頭であり、

その部下であり自分が指南役の秀吉を
呼び捨てにしたり
軽く見ていたようで
それを証明する手紙も数多く残っています。

信長時代から
秀吉に茶の手ほどきを
するだけでなく
その資金運用まで行っていて

秀吉の懐具合まで
知り尽くすくらい
重要な存在になっていきました。

秀吉にとっても
宗易は
堺のネットワークを支配する上で
欠かせないキーマンだったのです。

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利休の茶室で唯一現存する 妙喜庵 待庵

秀吉は
宗易の追求する「侘び茶」に強く惹かれて
茶の湯を「宗易流」へと
変えていき、

関白となってから
宗易をともなって参内し、

禁中茶会を開き、
有名な「組み立て式の黄金の茶室」
が持ち込まれ、

宗易は
正親町天皇から「利休」の称号を得ます。

ここに
「天下一の茶湯もの」千利休が誕生、
秀吉の地位とともに、
秀吉の弟、秀長とともに
秀吉陣営の飛車・角といった
存在となります。

利休だけが秀吉にものを言える、
とまで特別な存在。

しかし「黄金の茶室」は
利休が求める質素な「侘び茶」から
かけ離れたものであり、
これを境に 
秀吉と利休は別の道をいくようにもなります。

それが利休の運命をも変えてしまうのですが。

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再現された秀吉の「黄金の茶室」

画像(208x246)

利休が極めた二畳の茶室

千利休が極めた二畳の茶室。

村田珠光から師の紹鴎まで。
利休は継承しながらも
究極の「侘び茶」を完成させます。

利休の待庵には多くの工夫が
施されています。

@ 究極の小空間


三畳ではわび茶の境地に足りない、
と考えられた二畳の茶室。

図のように畳一畳に
三人座れる。
亭主と客が膝をつきあわせるスタイル。

A小窓

茶室の空間を壁で囲い
窓を開けることで
微妙な明かりのバランスを生み出す。

窓の位置、サイズも厳密に計算されていた。
紹鷗の、四畳半の茶室を入口の明かりだけで調整していた
スタイルと対照的。

B茶室を広く見せる工夫

「室床」と呼ばれる、
にじり口の正面に床を配置、
床奥の柱を無くし土壁が塗られている。

天井は平天井ではなく
一部斜面にし圧迫感を感じさせないように
工夫されている。

C「わび」を演出するための建材

建材は杉や竹が中心で簡素。

壁はすべてが土壁なだけでなく
わらが表面に散らされている。

床の間はすべて土壁、
床柱は杉の丸太、
横木は節を見せた桐、
と あらゆる面で簡素を貫いている。

画像(400x348)

明治になってから復元された大徳寺 千利休木造

秀吉にとって
重要な存在であった利休でしたが、
秀吉から切腹を命じられます。

表向きには

大徳寺山門二階に
利休木造を安置したこと
(その下を秀吉がくぐるのか?という怒り)
が原因とされています。

ただ、その後の利休や秀吉の様子から
今も謎の多いこの「事件」。

原因と考えられているものを挙げてみましょう。

@大徳寺山門二階の利休木造設置

A茶器を不正に売買したという疑惑

B秀吉と利休の、わび茶に対する考えのずれ。

C秀吉の朝鮮出兵に反対

D秀吉が所望した利休の娘を差し出さなかった

などなど。

秀吉が利休に対して激怒したのは
事実ですが、

残されている手紙、資料から
大徳寺事件にしても
前田利家など 北政所を通じて謝罪することを
利休に勧めていたことが分かっています。

でも利休はそれを拒絶、
堺から追放されて
結局切腹となりますが、

利休自身の哲学で
自ら死を選ぶことで
「関白にも屈しない茶人」としての
人生を完結した、とも言われています。

秀吉は
利休の身柄を堺から京都に移送する際、
わざわざ上杉景勝に厳重警戒を命じています。

秀吉はそこまで
利休の力を認め、背後の力を恐れてもいました。
なぜなら
利休のわび茶を継承した弟子の中には
「七哲」と呼ばれた
武将も数多くいたからです。

七哲

古田織部(ふるたおりべ)
蒲生氏郷(がもううじさと)
細川忠興(ほそかわただおき)
高山右近(たかやまうこん)
瀬田掃部(せたかもん)
牧村兵部(まきむらひょうぶ)
芝山監物(しばやまけんもつ)


利休の門弟となった武将

豊臣秀吉
豊臣秀長
豊臣秀次
前田利家
織田有楽斎
など



秀吉は
大徳寺の利休像を京都市街に引き出し
磔の刑にまでします。

しかし晩年には「利休の茶が飲みたい」といっていたという
話も残っており
利休の茶器を 利休の子供達に返却したり・・・。

天下人として処罰したものの
後悔していたのではないでしょうか??




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利休が好んだ 長次郎 赤楽茶碗「無一物」

いかがでしたか?

茶人として政治家として
時代に君臨した千利休。

侘び茶以外は
あまり知られていない側面があります。


次回は
利休の死後の千家を宗旦にスポットライトを当ててみようと
思います。

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光琳の梅  〜下鴨神社〜

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〜「京都の正月:10日ゑびす」の巻〜 ピロピの 新人ドライバー奮闘記!  SEE THE LIGHT!

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新洛中洛外其ノ五~苔寺と写経~

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